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2008年4月 7日 (月)

「走ることについて語るとき僕の語ること」

走ることについて語るときに僕の語ること

タイトルがまるで村上春樹が翻訳した本のよう。「走ることについて語るときに僕の語ること」(村上 春樹著、文藝春秋)を味わった。

タイトルの不思議さというか、ハルキらしさというかが「後書き」を読んで腑に落ちた。レイモンド・カーヴァーの短編集What We Talk About When We Talk About Love(「愛について語るとき我々の語ること」)のアレンジだそうだ。

ていうことはこの本に英語のタイトルをつけるとしたら、もちろんWhat I Talk About When I Talk About Running.。なんだかこちらの方が本当のタイトルのようで面白い、というかHarukiらしい。

翻訳ということからいえば、この本のいたるところにハルキが翻訳した文章ではないかということばであふれている。特に第5章「もしそのころの僕が、長いポニーテールを持っていたとしても」は、舞台をニューヨークにすればまるで、カポーティかと思わせるような文である。

 ボストン近辺では、すべてを呪いたくなるような不快な日が、一夏のうちに何日かある。しかしそれさえ我慢すれば、あとはなかなか悪くない。裕福な人々はヴァーモントやケープコッドにさっさと避暑に出かけてしまっているが、そのぶん街はがらんとして気持ちがいい。(122ページ)

原文をさがしたくなるような文の流れ。もちろん、これはオリジナルだが。この越境したようなハルキの日本語感が、最近さらに勢いを増している気がする。読んでいるうちにどこにいるのだかちょっとわからなくなっていくような不思議な感覚になる。そして、そんな文の趣きがわたしは嫌いではない。

書くことと話すことの違いが、英語と日本語のことを引き合いにして語られているところがあった。ハルキが人前で話すようなことは日本では皆無といっていいほどないが、海外では英語で講演を行ったりするという。その理由が興味深い。

妙な話だけれど、人前で話すということに限っていえば、日本語でやるよりは(いまだにかなり不自由な)英語でやる方がむしろ気楽なのだ。それはたぶん、日本語で何かまとまったことを話そうとすると、自分が言葉の海に呑み込まれてしまったような感覚に襲われるからだろう。そこには無限の選択肢があり、無限の可能性がある。僕は文筆家としてあまりにもぴったりと日本語に密着してしまっている。だから日本語で不特定多数の人々に向かって話をしようとすると、その豊穣な言葉の海の中で戸惑い、フラストレーションが高まる。

 日本語に関していえば、僕はやはりできる限り、机に向かって一人で文章を書くという営為にしがみついていたいと思う。(137~138ページ)

職人のような言葉だ。日々体を鍛え、ストイックな生活を続けて言葉の海を泳ぐように書くという行為を続けるハルキ。母語の海はマトリックス(母体)のようであり、その中で溺れないようにしながらも、少しづつ言葉を鍛えていって成長していき、外の世界とつながっていくような感触がある。

彼が、なぜ走るかを「小説をしっかり書くために身体能力を整え、向上させる」ためだとはっきりと言い切っているのも切れ味のいいナイフのように明快だ。

走ることを語るとき、ハルキは書くことを語っていた。それがハワイの「あきれるくらいさっぱりと晴れわたっている」覚悟のようでうれしくなる。そして、無性にわたしも走りたい気持ちになった。

今日の言葉

一人きりになりたいという思いは、常に変わらず僕の中に存在した。だから一日に一時間ばかり走り、そこに自分だけの沈黙の時間を確保することは、僕の精神衛生にとっと重要な意味を持つ作業になった。(31ページ)

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