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2008年8月14日 (木)

福岡伸一x川上未映子の「生物と文学のあいだ」

文学界 2008年8月号  [雑誌]

小川洋子さんの連載を読んでいたら、もう一つ面白い読み物に出会ってしまいました。あの「生物と無生物のあいだ」の福岡伸一氏と芥川賞作家となった川上未映子さんの対談が「文学界」8月号に載っていました。

「生きているとはどういうことか」を科学者と作家が異なった文体で語り合っているうちに、波長がだんだんと合ってくるという醍醐味、ついつい読み進んでしまいます。

キーワードは”入れ子”と”境目”。2人の対談が佳境に入った頃に「生物はどんなふうに生きているか」という本質を語り始めます。

福岡:(前略)生物には固定した「輪郭」というものもないんです。皮膚の表面だって無限に解像度を上げていけば、分子が猛スピードで出たり入ったりするのが見えるだけです。CGのアニメーションがどんなにリアルに作ってあってもうそ臭く見えるのは、切断された輪郭線があるからなんです。だからCGをさらにリアルにするためには、界面をぼかすような処理を発明すればいい。特許をとってハリウッドに売れば大儲けができるかもしれませんね。(中略)

川上:要するに、その考えでは私たちの体って分子の「ムラ」に過ぎないわけですね。濃い部分。あるいは蚊柱みたいなもので、中にいる蚊(分子)はどんどん入れ替わっている・・・。

福岡:その通り。しかもその蚊柱の中に、さらにまた臓器、細胞、DNA・・・とそれぞれ蚊柱が立っている状態です。

川上:まさに入れ子ですね。でもこれが(自分を指して)ムラであり、分子レベルではどんどん入れ替わって流転する仕組みにあっても、なぜかやっぱり代えのきかない「私」というものがここにあって、なにかしらそこには「スペシャルで一度切り」のものがある、それを経験していると感じざるを得ない感覚があります。(「文学界」8月号189ページ)

話の流れは哲学的な方向へ。福岡氏のとく「動的平衡状態」(生命体が生き続けるために常に分解→破壊と修復→再生を繰り返すこと)は、生物学だけでなくすべてのことにあてはまるのではないかと考える川上さん。作家の多和田葉子さんの言葉、「ユリイカ―多和田葉子特集」の中で「言葉には成り立とうとしているけれども、同時に壊れようとしている力が含まれていて、だからこそ言葉が生きている」を引用しています。この、「言葉も壊れたがっている」というところに”ゆく言葉””来る言葉”という今を感じさせる一回性があり、妙に納得してしまいました。慧眼です。

さらに話題は”自我というものを生物学的にどう考えるか”ということに。

福岡:(前略)細胞というのは自分を自分では規定できないというのが大事な教訓です。常に周りの細胞との関係性の中でしか規定できない。(中略)

川上:ドーナッツの穴のようなもので、ぽっかり抜けた無の部分の方が自己だ、というわけですね。

福岡:ええ、自己というのは自ら規定できず、周りが規定するだけのものとしてある。それが細胞が教えてくれる自己のあり方です。人間の場合も、関係論的に自我が成り立つという言い方はできるのではないでしょうか。(同194ページ)

ドーナッツの穴が自己だというところ、最高です(だからドーナッツが好きだったんだと合点したりして)。ドーナッツは穴があるからドーナッツになるので、この穴をあなどってはいけませんね。

あれこれと考えさせられる刺激的なお話でした。

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