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2008年9月 4日 (木)

「現代語訳 般若心経」

現代語訳 般若心経 (ちくま新書 (615))

今、座禅がちょっとしたブームだそうです。ストレスの多い毎日、座禅を組んで頭を空っぽにしたいということでしょうか。

先日、禅僧で作家でもあられる玄侑 宗久氏の「現代語訳 般若心経 (ちくま新書 (615))」を友人から薦められました。

「般若心経」は、家の法事の時にお寺さんと一緒に読経するので、意味はわからなくても歌のように頭に浮かぶ節のようです。

「はんにゃーはーらーみーたー」とか「ぎゃーてーぎゃーてーはーらーぎゃーてー」と唱えていました。

しかしその意味は?全然わからないで唱えていました。そして実はこの本を読んでも正直な話し、ばっちり理解したとは全然いえません。何か糸口がみえたような、そんな読後感でしたが、それでも摑んだものは自分なりにあり、それを紹介したいと思います。

冒頭で「人間がいかに言葉の意味にさらわれ、合理性に絡めとられやすいか」(18ページ)を伝え、「知の転換」を図ることを説いています。

そして訳が始まるのですが、その文章は、寺子屋で新しく来た子どもに教えるようなわかりやすい口調であり、また何か昔話を聞かせるような興味の尽きない語り口です。

何より驚いたところはここ。

仏教的なモノの見方をまとめるなら、あらゆる現象は単独で自立した主体(自性)をもたず、無限の関係性のなかで絶えず変化しながら発生する出来事であり、しかも秩序から無秩序に向かう(壊れる)方向に変化しつつある、ということでしょうか。(39ページ)

どこかで似たようなことを読んだような。そう、「生物と無生物のあいだ」(福岡伸一著)の中の「動的平衡状態」と何と酷似しているのでしょう。科学の真理が宗教の真理に通じるようで、不思議な気がしたものの、妙に納得する感覚もありました。後半でさらに展開する量子力学の言及なども仏教との共通点を論じていました。(ここは難しくてよくわかりませんでしたが・・・)

それともう一つ。「我も空である」(56ページ)ということも先日書いた記事「自己がドーナッツの穴のようなもの」に通じていて興味深いものでした。

何かを見る、聞く、嗅ぐ、あるいは光を受けるだけでも、私たちは少しずつ変化しています。むろん我々の感覚器の能力を超えたモノともしょっちゅう出逢い、、少しずつ少しずつ、知らないうちに私たちは意識できる以上に変化し続けているのでしょう。それが生きているということでもあります。だから固定的な自己というのは、仏教的にはどう考えてもナンセンスということなのです。(56ページ)

アイデンティディーの確立ということが最近の教育の場でもよく言われますが、自分だけの「自己」があるという観念に縛られているのが現実かもしれません。

最後に”今の人間が脳で考える観念にしたがっているのをもっと境界を取り払って全体を感じていくという姿勢が大切”なのかもとおぼろげに思いつつ読了。また何年かして再読したい本です。

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