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2009年6月 4日 (木)

「33個めの石」

33個めの石 傷ついた現代のための哲学

 新聞の書評で面白そうなタイトルだな、っと思ったのが「33個めの石 傷ついた現代のための哲学」(春秋社)。著者は哲学者の森岡正博。

今という社会が抱えているさまざまな問題と未来への示唆を綴ったエッセイ集だ。その中の冒頭エッセイが「赦すということ」

昨日書いた「なぜ君は絶望と闘えたのか」で死刑制度のあり方を考えたが、この本の著者は死刑反対の立場をとっている。

自分の家族や愛する人を無残に殺されたとき、その犯人を自分の手で殺してやりたいという気持ちもまた、私は充分に理解できる。たとえそれが違法であったとしても、この手で犯罪者の命を奪い、復讐してやりたいという思いは、ありありと分かる。だから、もし自分の手で殺せないのだったら、国家の名のもとに殺してほしい、という被害者家族の気持ちもよく分かるのである。

 私は、死刑を肯定する感情を自分の中に持ち合わせている。そのうえで、理性の力でもって死刑を廃止すべきだと考えているわけなのだ。日本では死刑反対論者は少数派のようだが、みなさんはどうお考えだろうか。(6ページ)

と問題を読み手に投げかけた後で、2006年にアメリカで起きたアーミッシュの子どもたちが銃を持った男に殺された事件を語っている。アーミッシュというのはキリスト教プロテスタントの一派で、争い事を好まず、質素な生活様式を保っている人たちだ。事件後、被害にあったアーミッシュの人々は、無抵抗な子どもたちを殺害した犯人とその家族を「赦す」と言ったのだ。犯罪者に復讐をしたり、恨んだりするのではなく。子どもを殺された親がその犯人を赦すということがほんとうに可能なのだろうか?と思うのは著者だけではあるまい。しかし、彼らの信仰がそうさせたのか、どんな思いがそう宣言させたのか、彼らは犯罪者を「赦し」たのだ。ここで、著者はもう一度問いを投げかける。「日本に住む我々の多くは無信仰である。既成宗教の枠に入り得ない人々がこのような赦しを行なうことがほんとうにできるのか。」(13ページ)私にはできそうもない。

そして「33個めの石」というエッセイ。2007年にアメリカのバージニア工科大学で起こった学生による銃乱射事件をとりあげている。32人の学生・教員が殺され、乱射した学生は自殺した。

バージニア工科大学事件の次の週に、被害者の追悼集会がキャンパス内で行なわれた。キャンパスには、死亡した学生の数と同じ33個の石が置かれ、花が添えられた。実は、犯人によって殺されたのは32人である。「33個めの石」は、事件直後に自殺した犯人のために置かれたのである。(27ページ)

後に大学が行なった追悼式では犠牲者の墓石は32個だったとされているが、それでもたしかに短い間だったとしても、「33個めの石が個人によって自発的に置かれ、キャンパスの芝生の上で追悼の対象となったことに、われわれは小さな希望を見出すことが出来る。(194ページ)

そこには、殺された人々の追悼の祈りを殺した者とともにできるだろうか、という問いかけがある。これも私にはできそうにない。

2005年、日本で起こったのJR福知山脱線事件では、死者は運転士も含めて107名にのぼった。JR西が行なった慰霊式では遺族アンケートを踏まえて運転士を除く106人が慰霊の対象になった。著者は、「33個めの石」が力強いメッセージとなって、社会が「赦し」を受け入れていくというようになることを強く願うと結んでいた。確かに私も心からそう思う。「やられたらやり返す」的な社会では負の連鎖しか起こらないと思う。私も寛容な社会を強く願う者だ。でも、もし自分が被害者になったり、被害者の家族になったりしたら寛容でいられるか、という問いかけが、やはり強く残るのだ。

その他、「恐怖を消す薬」「脳と幸福」「英語帝国主義」などのエッセイが刺激的で、大いなる問題提起の書といえる。

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