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2009年12月28日 (月)

「日本語が亡びるとき」

日本語が亡びるとき―英語の世紀の中で

去年の11月に発売以来、話題の本、「日本語が亡びるとき―英語の世紀の中で」をやっと読むことが出来ました。

著者:水村 美苗
販売元:筑摩書房
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エッセイの形をとっているものの、後半は日本語、英語についての評論になっています。そして、亡びていくことに憤りを感じているのは実は、タイトルで日本語といっているものの、実は亡びゆく“日本近代小説”。筆者の文学への強い想いがひしひしと伝わってくる本でした。特に水村氏の夏目漱石への想いは“好き”すぎて客観的に書けないような感じがするくらい。「三四郎」の広田先生の日本は「亡びるね」ということばはこの本全体のキーワードのようでした。

さて、評論部分の感想は 「ミセスの本棚 読書クラブ」のレビューを参考にしていただいて、こちらでは水村氏の〈普遍語〉と〈現地語〉の箇所を外国篇と日本篇に分けて引用してみたいと思います。ちょっと長いですが、この部分が気になった部分。

14世紀初頭。当時、西ヨーロッパでもっとも文明が進んでいた今のイタリア語圏では、フィレンツェ方言のイタリア語を使ってダンテが『神曲』(詩篇)を書いた。ダンテが書いた『神曲』で使った〈現地語〉は、その後イタリア語の規範となり、ダンテは『イタリア語の父」とよばれるようになった。だが、ダンテはイタリア語で書いただけではない。ラテン語を読み書きし、『俗語論』という、まさに俗語を擁護する重要なエッセイをラテン語の散文で著している。(中略)16世紀初頭に『聖書』をギリシャ語からドイツ語へと翻訳したマルティン・ルター。ルターの『聖書』のドイツ語が今のドイツ語の規範となっているのは誰も知ることである。だが、僧侶となる訓練を受けたマルティン・ルターも、もちろんドイツ語だけを書いたわけではない。かれは、ラテン語も日常的に読み書きし、遺書はラテン語で遺している。あるいは、16世紀の前半にイギリスで活躍し、ヘンリー8世によって死刑に処されたトマス・モア。かれは『リチャード三世の歴史』をラテン語と英語と両方で書いた。(中略)
 〈国語〉の父とよばれるようになる人のほとんどを特徴づけるのは、かれらが〈普遍語〉の流暢な操り手であったということであり、優れた二重言語者であったかれらは、広い意味での翻訳者、しかも優れた翻訳者にほかならなかった。(同書 三章―地球のあちこちで〈外の言葉〉で書いていた人々 より136ページ)

これが、ヨーロッパにおける〈普遍語〉ラテン語とそれぞれの〈国語〉となる〈現地語〉との係わりの形だとしています。では、時は下って開国後、明治以降の日本の場合は、

(前略)『金色夜叉』が、実は英語の「ダイム・ノーベル」という読み捨ての娯楽小説を焼き直したものであったという事実が、2000年に発見された。(中略)日本近代小説の黎明期、西洋語をよく読んだ日本の小説家にとって、翻案、翻訳、創作という三つの行為はつながっていてあたりまえであった。思えば、漱石と同時代人の尾崎紅葉である。英語の小説を乱読し、そのうちの一つを翻案して自分の小説を書いたとしても何の不思議もなかった。ただ、それを、百年後、私たち日本人は忘れてしまっていたのである。
 モダンな文体の芥川龍之介が英語を驚くほどよく読んだ、しかも速く読んだのは知られている。『鞍馬天狗』を書いた大佛次郎が丸善に借金を返せなくなったほど洋書を買ってばかりいたのを知る人もたくさんいるであろう。だが仏教小説として知られるあの『大菩薩峠』を書いた中里介山が、ヴィクトル・ユーゴーの英訳をむさぼるように読んでいたのを知る人は少ない。国文科に席を置き、のちに「日本回帰」して『源氏物語』を現代語に訳したりした谷崎潤一郎だが、その谷崎でさえも英語を流暢に読んだのを知る人も少ない。(中略)〈国語〉が高みに達した時は、単一言語者であっても、〈世界性〉をもった文学を書けるようになる。しかも、時を得た人間の能力には底知れぬものがあり、すべては目を瞠るような勢いでおこる。二重言語者が育つやいなや一挙に翻訳本が増える。〈世界〉で何が起こっているかをおおよそ知るために、西洋語をじかに読む必要がなくなるのである。(同書 五章―日本近代文学の奇跡 229ページ)

日本は翻訳大国。世界の名作はいくつもの翻訳を楽しむことが出来るし、新訳もどんどん出ています。海外で評判の新しい本もほとんど時差なく訳されてもいます。この今の豊かな翻訳文化が逆に〈普遍語〉として世界を席捲する英語が読めなくしてしまっているという運命と矛盾と。〈普遍語〉の書き手が、どのくらい〈現地語〉の読み手であるか、また〈普遍語〉の読み手がどのくらい〈現地語)の書き手なのか、または書き手になっていくのか、いろいろなことを考えさせられました。

村上春樹の英語、須賀敦子のイタリア語など、書き手による翻訳は今も少なくありません。もちろん、水村美苗氏もすぐれた英語の使い手であり、日本語の小説を夏目漱石のように書く作家でもあるわけです。今後の日本小説を占う視点として〈普遍語〉と〈現地語〉の関係は目が離せません。

続 明暗 (ちくま文庫) 続 明暗 (ちくま文庫)

著者:水村 美苗
販売元:筑摩書房
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こちらは、未読の夏目漱石、「明暗」とセットで読みたいものです。

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