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2010年4月28日 (水)

「テヘランでロリータを読む」

テヘランでロリータを読む テヘランでロリータを読む

著者:アーザル ナフィーシー
販売元:白水社
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原書で読む読書会も、始まってからもう5年。今までオースティンやオスカー・ワイルド、そして「ギャッツビー」などを読んできました。

この本は、そんな読書会のことを話していた時に、「こんな本もあります」とある方から薦められた本です。

著者のアーザル・ナフィーシーは、イラン、テヘラン生まれ。父親が元テヘラン市長、母親が国会議員という名門の出。幼いころから海外留学し、たっぷりと欧米の教育を受けて育った彼女が、1979年のイラン革命直後に帰国し、テヘラン大学で英米文学を教えつつ、経験した葛藤と生活を綴ったもの。現在はワシントンDC在住でジョンズ・ホプキンズ大学教授だそうです。

内容は、4部に分かれています。第1部ロリータ、第2部ギャッツビー、第3部ジェイムズ、第4部オースティンという具合。

この本を読んで強く感じたことは、本には言葉や文化、思想の違いを越えて伝わるものが確実にあり、人を深く考えさせ、支えることができるということです。

たとえば、第2部ギャッツビーの章では、この小説を「アメリカがバラまく低俗な考えがいっぱい詰まった悪い本」とするイラン・イスラーム共和国側と、『グレート・ギャッツビー』を擁護する側とで、クラスの一環として裁判をしています。そこでは、教師も学生も、互いに大きな溝を抱えながらも「わかるでしょう?」という、違う考えを持つ人にでも、その人にわかってほしいという願いが込められたやりとりが交わされていました。この模擬裁判のあと、著者は深く思考しています。

 イランの私たちとフィッツジェラルドに共通するのは、私たちに取り憑き、現実を支配するにいたったこの夢、この恐ろしくも美しい、現実不能な夢、現実のためならどれほどの暴力を使ってもかまわないような夢である。私たちにはこうした共通点があったが、当時はそのことに気づいていなかった。
 ミスター・ニャージー(*ギャッツビーの裁判で小説『グレート・ギャッツビー』を激しく弾劾した学生)、夢というのは完全な理想で、それ自体で完璧なものなのよ。絶えず移り変わる不完全な現実に、どうしてそれを押しつけるようなまねをするの?そういう人間は、ハンパートになって自分の夢の対象を踏みにじるか、ギャッツビーになってみずから破滅することになるでしょう。
 その日、教室を出るときには、自分でもようやくわかりかけてきたことについては黙っていた。それは私たちの運命がいかにギャツビーの運命に似てきたかということだった。彼は過去をやりなおすことで夢を実現しようとしたが、結局、過去は死に、現在はまやかしで、未来は存在しないことを知る。これは私たちの革命に似ていないだろうか?共同の過去の名のもとにやってきて、夢の名のもとに私たちの人生をめちゃめちゃにした革命に?(202ページ)

章を進むごとに、それぞれの作品の登場人物と、テヘランの混乱がシンクロしていくような緊迫感があり、アーザル本人はもちろん、彼女の同僚、教え子たちの運命も翻弄されていきます。

自分とはまったく違った状況にいる読者が、自分と同じ本を読んで、どう考え行動していったか、考えさせられました。そして、ある意味、読者が本に奥行きを持たせていくという事実も感じさせられました。

目次に挙げられた著者を知らなくても、知らない世界をイランという国を通して読んでいくきっかけになる本です。読み応え、あり。

余談ながら、翻訳は市川恵里さん。この方は「やんごとなき読者」でもうまいと思いましたが、この本も手堅い翻訳で好感度アップ。

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