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2010年7月10日 (土)

「太陽を曳く馬」

太陽を曳く馬〈上〉 太陽を曳く馬〈上〉

著者:高村 薫
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太陽を曳く馬〈下〉 太陽を曳く馬〈下〉

著者:高村 薫
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川村美術館のマーク・ロスコの絵を見てから、是非読んでみたいと思っていた本です。上下巻全787ページ、1ページ1ページに実に重量感のある作品でした。

この小説の大きな流れは、合田雄一郎という刑事を中心に、2つの事件が深く絡み合って進んでいきます。一つが福澤秋道という絵を描く青年が起こした殺人事件。もう一つは、末永和哉というてんかんの青年が交通事故死したことに対して、彼の両親が監督の義務を怠ったとして永劫寺サンガ(仏教で修行者の集団)を訴えた事件です。そして、合田自身も別れた妻を同時多発テロ9.11で亡くしているというトラウマを抱えています。

読後感は、戸惑い、当惑――理解しがたいものがもやもやとして意識の深くに落ちていくような感じがありました。

いろいろな現代の問題が言葉の限りを尽くして論じられ、正直読み進むのが大変でした。読み終えるのに「1Q84」の10倍くらい時間がかかってしまいました。でも、読んで良かったと思えるのです。

何とか言葉にしようという果てしない言語化への冷徹な執念と、言葉で問い続けることのエネルギーが、熱を帯びて読む者を捉えます。それは、どこかマーク・ロスコの絵を前にした時の感覚と似ているともいえるのでしょう。

印象に深く残るのが、上巻第2章「公判」(四)です。川村美術館でみた「アンナの光」とロスコの絵の赤が語られる場面。それは、秋道が殺人を犯した時に描いていた絵について、彼の父、福澤彰之が手紙の中で展開される感想です。

(前略)事件の日からほゞ一ヵ月閉め切られてゐたそこは、まだ強い油絵具の匂ひがこもつてをりましたが、入り口の扉を開けた時に見えた赤は、いまでもこの網膜に染み込んでゐます。事件の直前まで約二昼夜、君が上下左右の空間全部を被ひ尽さんとして塗り続けてゐたと言はれてゐる赤です。否、正確には雨戸が閉まってゐた部屋には天窓の僅かな外光だけがあり、初めに見えたのはほんたうに沈んだ、カドミウム・マルーンほどの色でした。聞くところでは、君も雨戸を閉めて天窓の光だけで絵具を塗ってゐたさうですから、網膜の視細胞が實際に受容してゐた光は、わたしに見えたのと同程度の量であったはずです。
 私は眼を凝らしました。入り口から入る外光を受けて、赤がゆっくり立ち上がってきました。(上巻240ページ)

(中略)驚くべきことです。マチスの赤い部屋にはまだなにがしかの形態の記憶をかきたてるものたちが残されてゐましたが、君の部屋にはもはや色があるだけで、細部も部分もないのでした。これは視線を受け止める基底がないといふことです。空間が失はれ、従って時間も失はれ、近づいても離れても色に張りつかれ、襲はれ、空気にも色がついてゐた、あれは光がつひに質量をもって姿を現した瞬間だったのでせうか。否、その光を描いた當の君に問ふまでもなく、それを見る私の脳が驚き、飛び跳ねたといふだけで完結してゐる話ではありますが、その上でなほ、二昼夜もの間、色が光になり、光りだけしかない空間に立って君が描かうとしてゐた何ものかを、君は一瞬でも見たのか、それともあの光こそが君の描きたかったものなのかと、私はさらに自問してゐます。(上巻243ページ)

と順序立てて語られていく“赤の情景”が、必死で言語化されていて、その感触を書き切ろうという強い祈りにも似た想いが伝わってきます。そして、この小説を読んで秋道の赤がバーミリオンという銀朱であることを知ります。“網膜に染み込む赤”、“光を放つ赤”というものが納得できるのです。

Photo

脳裏に漂う言葉が確かな手触りを伝え、でもどう理解していいのかは大きな疑問として残されます。

下巻では、伝統的な仏教と、オウム真理教がどう違うか、同じなのか、はたまたそもそもオウムは宗教と言えるのかなどが、言葉を尽くして語られていきます。時として禅問答のように思えて、ここでも頭がついていけなくなりそうなのをなんとか読み進んで、ふと雄一郎の若い部下の言葉に一理あると思ったり。

「腐った世の中で生きる意味はないから。なぜ仏教でなく、オウムだったか?答えは、オウムのほうが自分サイズだったから。これは理屈ではない、身体感覚です。もちろんそうは言っても、これは、べつにそういう伝統仏教の価値を認めるわけではなくて、ただ相手が無意味にでかいということですけど。ともかく飽食の末の私たちの退屈や空洞なんか、仏教二千五百年の〈空〉に勝てるわけがない。帰依しようにも、言っていることの次元が高すぎて歯が立たない。ありがたい仏像を拝んで、どうかなるものでもない。ご大層なわりには具体的な手応えがない。それが直感的に分かっているから、新興宗教が繁盛するんですよ。」(下巻56ページ)

オウム真理教についてを考察する本や映画は多いですが、この本のように伝統仏教との論争という形を取って、新興宗教を考えているものには、初めて出会いました。観念が難しくて歯がゆいですが、興味深いアプローチだし、よくぞ書いてくれたという思いがします。

この「太陽を曳く馬」という作品は、「晴子情歌」と「新リア王」という作品の次に来るものらしいので、いつか3部作の他の作品も読めればと思います。

まとまった読書の時間が取りやすい時に手に取ってみてはどうかという本です。何か、長く心に残るものがある本、考えさせられる本です。

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